羽島市に江戸時代から伝わる木綿織物「美濃縞」
美濃縞のおこり
「節句集」(慶長2年)や「毛吹草」(寛永15年)などに美濃の名産として「生糸・綿・絹」があげられており、近世のはじめにはその品質のすばらしさが全国的に知られていた。
木綿織物である美濃縞(桟留縞・管大臣縞・美濃結城縞の総称)は、まず明和年間(1764~1772)に京都の西陣から桟留縞(綿)の製織技術として伝わり、加納・笠松・竹ヶ鼻を中心にして生産された。明和から天保にかけた約60年間、この地方を代表する織物であった。たとえば、文政12(1829)年、加賀金沢の商人の記したものの中に「尾張と美濃の桟留縞は諸国流行の品で、加賀藩領内への売捌量も莫大にあがる」とのべていることからも理解できる。
天明3(1783)年、京都の仏光寺通り西ノ洞院の火災の結果、そこに居住していた機業者が美濃に移住して管大臣縞(綿)(寛大寺縞とも記す)を織り出した。
さらに文政頃(1829)、京都から結城縞(絹)の技術が伝わり、美濃結城縞(絹織物が綿との交織となった高級織物)が織り出された。細口の木綿に絹糸をまぜて900本から1000本の筬(おさ)を打ち込んで織り出される。縞柄は、三筋立・二崩し・三崩し・四崩し・刷毛縞などがあった。製織上からも桟留縞より高い技術を必要とされ、製品は高級衣料で、農家の日常衣料ではなく、都市町人層をお客さんとし、遠隔地に売り捌かなければならなかった。加納・竹ヶ鼻・笠松周辺の西濃地方が主産地であった。
文政・天保期には主として美濃の芝原・北方・加納の問屋を経て売り出されたので「美濃結城縞」と呼ばれ、文政期から明治初年にいたるまでこの地方の代表的な縞木綿となった。
美濃縞の生産についてみると、寛政3(1791)年桑原輪中尾張藩領12か村では300件余りの織屋が各自2~3機、多い者は7~8機を持ち、1機あたり女子奉公人を1人半、合計2000人余りを雇っていた。
伝統織物「美濃縞」の魅力を今につなげる
美濃縞伝承会の作品展(毎年3月上旬予定)
不二羽島文化センター展示室「円空」にて、美濃縞伝承会の会員が一年間かけて作り上げた植物染めによる美濃縞が展示されます。入会して間もない会員の初々しい作品や、20年以上の経験を積んだベテラン会員の作品などさまざまな作品が並び、年ごとの企画展示もあります。また、綿くり器を使って種を取り除いたり、よりこから糸を紡ぐなどの実演や、機織りの体験ブースも設けられます。